合気道 奥州道場  Aikido Oshu Dojo

(公財)合気会 公認道場  ☆★☆ 合気道奥州道場は岩手県の合気道場です ☆★☆

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平成29年1月23日(月)岩手日日 ☆鏡開き☆

一年の精進誓う

 

3合気道教室の生徒が演武

 

奥州市などに3教室を開設する合気道奥州道場(菅原美喜子道場長)の鏡開きは22日、同市前沢区の前沢いきいきスポーツランドで行われた。生徒らが演武などで日ごろの稽古の成果を披露し、1年の精進を誓った。

 

前沢、江刺、一関の3教室に5歳から70代まで約90人が通い、週1〜3回の稽古に励んでいる。同日はそのうち50人が参加し、子供の家族らが見守る中、呼吸を整え精神を落ち着かせて演武に臨んだ。

 

少年部の初心者・初級者から中・上級者、中学生、一般の有段者までが前受け身、後受け身、片手取り四方投げなど習熟度別に演武を披露。合間に顧問らが模範の演武を見せた。 小学1年から始めた小原駿くん(前沢小5年)は「大人の方々に少しでも近づけるよう休まず練習したい」、同2年からの遠藤多聞くん(同)も「初級者にうまく教えられるよう基礎をしっかりできるようにしたい」と抱負を語った。

 

演武を披露しながら合気道を解説した菅原道場長は、「どんな状況でも自分の力を発揮できるよう心と体をトレーニングする。相手と対峙(たいじ)することなく、(相手を)自分の動きの中に自然に取り込む訓練を積み重ねる。それが勉強にも仕事にも役立つ」と話した。

 

 

 

合気道開祖 植芝盛平 綾部〜満州

綾部へ

 

開祖が上湧別村会議員に当選した翌年、1919年(大正8年)開祖36歳のときのこと。
 

開祖のもとに、郷里田辺よりお父上危篤の知らせが届きます。
 

開祖は北海道を去る決意を固めます。
 

土地や家屋を手放し、妻子を連れて田辺へと向かいました。

 
 

田辺へと向かう途中、開祖は大本(おおもと)教の出口王仁三郎(でぐちおにさぶろう)という人の噂を耳にします。
 

開祖はこの人に父の病気平癒の祈祷をお願いできないものかと、ひとり京都府綾部へと立ち寄りました。
 

そこで出口王仁三郎に出会うことになりますが、この間にお父上は亡くなってしまいます。
 

開祖は大変なショックを受けますが、それまでに王仁三郎に深く魅了されていた開祖は、王仁三郎の勧めもあり、一家を率い綾部に移住することにしました。
 

 

「武道を天職とせよ」という王仁三郎の言葉を胸に、開祖はさらに武道の研鑽を重ねます。
 

1921年(大正10年)開祖38歳のとき、三男が生まれます。
(これまでに男児2人生まれておりましたが、相次いで病死しておりました)
 

この時、王仁三郎が名付け親となり「吉祥丸(きっしょうまる)」と名付けられました(のちの二代目道主)。
 

 

翌年、1922年(大正11年)開祖39歳のとき、突然北海道の武田惣角(北海道開拓時代 参照)が妻子とともに綾部を訪れます。
 

当時綾部の道場「植芝塾(うえしばじゅく)」には陸海軍の軍人も開祖の門人として多数出入りしておりましたが、開祖はその門下の軍人たちとともに惣角の指導を受け、開祖は目録「合気柔術秘伝奥義之事」および「大東流合気柔術教授代理」の資格を授かりました。
 

この時から開祖はご自分の武術を正式に「合気武術(あいきぶじゅつ)」と称するようになり、重ねて武道としての精神的な裏付けを求め「言霊(ことだま)」の研究に没頭したといわれております。
 

また世間では、綾部に稀代(きだい)の武術家ありとうたわれておりました。
 

満州へ

 

1924年(大正13年)開祖41歳のとき、王仁三郎は満蒙(満州とモンゴルの地のこと)に統一宗教の独立国家を建設するという壮大な雄図のもとに、開祖を伴って満州へと渡り、「内外蒙古独立軍(ないがいもうこどくりつぐん)」を結成します。
 

その時開祖は、私達から見ればとても不思議な体験をしております。
 

光のつぶてが飛んでくる

 

王仁三郎と開祖は関東軍特務機関斡旋のもと、満州の支配者張作霖(ちょうさくりん)配下の馬賊、盧占魁(ろせんかい)の率いる「西北自治軍」とともにモンゴルへ向かいます。
 

しかし、盧の独走を疑った張の策謀により何度も死の危機にさらされることになります。
 

開祖はこの時の銃撃戦で、銃弾が来る前に「光のつぶて」が飛んで来るのが見え、それを避けたら、銃弾が光のつぶての軌道を通って飛んでくるという体験をします。
 

その光のつぶてを避ければ、敵弾から逃れることができたと言っております。
 

 

敵の銃弾の弾道が見えたといった話ではありません。
 

銃弾が飛んで来る前に光のつぶてが飛んできて、光のつぶてのあとに銃弾が飛んできたといっております。
 

敵の撃とうという念が、撃つ弾よりいち早く光のつぶてに見えて飛んできたものと思われます。
 

開祖はこの後何度も同じような体験をしますが、こんな話があります。
 

帰国後の話。
 

開祖の弾除けの話は陸軍の中でも有名となり、それならやってみろと、開祖は居並ぶ鉄砲隊の前に立たされます。
 

鉄砲隊は開祖に向けて一斉に射撃を始めます。
 

ところが、いつの間にか開祖の姿は鉄砲隊の背後にあって、鉄砲隊を次々と投げ飛ばしておりました。
 

それならばこれはどうだとばかりに、今度は鉄砲のプロである猟師を呼んできましたが、これには開祖は丁重にお断りしたとのことです。
 

なぜならばと開祖がおっしゃるには、猟師はどこから飛び出すかわからない動物を相手にしているため、反射的に弾を撃つ。
 

軍人は見えている人間を狙って弾を撃つので、どこに弾が飛んで来るか(光のつぶてが飛んで来るので)見えるが、猟師のは見えない、ということでありました。
 

つづく

奥州市(水沢)の三偉人

前回、「田辺の三偉人」と言う題名で記事を書きましたが、
その中で、ちらっとだけ書いた、
奥州市の三偉人(正確には「水沢の三偉人」)というものがあります。

 

江戸時代の蘭学者、高野長英(たかのちょうえい)
初代東京市長(現在の東京都知事)、後藤新平(ごとうしんぺい)
第30代内閣総理大臣であり、2.26事件で命を落とした齋藤實(さいとうまこと)

 

現在ならば、奥州市の三偉人と行ったら誰でしょう?
と聞けば、
もしかしたら、

 

日本ハムの大谷翔平(おおたにしょうへい)選手!
NHKの阿部渉(あべわたる)アナウンサー!
漫画家の吉田戦車(よしだせんしゃ)!
みたいな答えが返ってくるかもしれません。(笑)
(それはないか・・・汗)

 

高野長英(たかのちょうえい)

 

江戸時代、ここ岩手県奥州市は南部藩ではなく仙台(伊達)藩に属しておりました。

 

※全く関係のない話ですが、南部藩と仙台藩の領地の境を決めた時の逸話がありますので、これをまた別の機会にお話ししたいと思います。

 

高野長英は、文化元年(1804年)水沢(現在の奥州市水沢区)の領主である、水沢伊達氏(=留守氏:るすし)1万6千石の家臣、後藤実慶(ごとうさねのぶ)の三男として生まれました。
 

もともとの名は「後藤謙(ごとうゆずる)」といいました。
 

父が9歳の時に亡くなったため、母の兄高野玄斎(たかのげんさい)の養子となり「高野」姓を名乗るようになりました。
 

文政3年(1820年)、江戸に赴き杉田伯元(すぎたはくげん)や吉田長淑(よしだちょうしゅく)に師事しましたが、のちに吉田長淑に才能を認められ、師の「長」の文字を貰い受けて「長英」を名乗るようになりました。
 

その後長崎に留学してシーボルトの鳴滝塾で医学・蘭学を学び、学力が抜きん出ていたため、やがて塾頭となっています。
 

天保元年(1830年)江戸に戻り、麹町に町医者として蘭学塾を開業し、能力を買われて田原藩のお雇い蘭学者として小関三英や鈴木春山とともに蘭学書の翻訳に当たったと言われています。

 

奥州市水沢区の水沢公園(桜がとてもきれいな公園です)内に「高野長英記念館」があります。

 

高野長英記念館
〒023-0857 岩手県奥州市水沢区中上野町1番9号
TEL : 0197-23-6034
http://www.city.oshu.iwate.jp/syuzou01/riyou.html

 

後藤新平(ごとうしんぺい)

 

安政4年(1857年)留守氏の家臣・後藤実崇(ごとうさねたか)と利恵の長男として生まれました。
上に書いた高野長英とは遠縁に当たります。
 

後藤新平は最初から政治家を目指していたようでありますが、高野長英の影響もあり、恩師や周囲から医者になることを強く薦められ、17歳で須賀川医学校に気の進まないまま入学することになりました。
 

ところが、同校では成績は優秀。卒業後、愛知県医学校(現在の名古屋大学医学部)で医者となりました。
 

ここではなんと24歳で学長兼病院長となり、病院に関わる事務に当たっておりました。
 

このときの実績が評価され、内務省衛生局に入り、医者としてよりも官僚として病院・衛生に関する行政に従事することとなりました。
 

後藤新平はその後、あれこれ官僚、閣僚を歴任し、初代東京市長(現在の東京都知事)に就任します。
 

彼の立案する計画はどれも、他の人たちから見るとどれも壮大すぎる計画に見えたため「後藤新平の大風呂敷(おおぶろしき)」とよく言われました。
 

後藤新平にしてみればインフラ計画などは、非常に丁寧に堅実に、先々のことなどを含め考えて、考えて、考え抜いて立てた計画であったのですが、周囲の理解をなかなか得られることは出来ませんでした。
 

例えばこんな話があります。
 

鉄道のレールの話。
 

明治維新後、日本に鉄道を敷設する時、レールとレールの間の幅(軌間)の規格を明治政府が決めた際、なかば適当に1067mmと決めてしまっていました。
 

ところが、ヨーロッパなど多くの外国では1435mm(標準軌)となっていて、日本の鉄道はそれよりも狭く、輸送力やスピードで大きく劣るものとなっておりました。
 

日本が満州に建設した満州鉄道ではこの1435mm(標準軌)を採用し敷設されましたが、日本国内の鉄道は1067mmのままでありました。  ※現在も在来線は1067mmとなっております。
 

後藤新平が満州鉄道の初代総裁に就任した時、日本国内の鉄道もすべて満州鉄道にならい軌間を1435mm(標準軌)に架け替えようと言う計画を持ち出しました。
 

しかし、予算が膨大に膨らんでしまうため、すったもんだの後計画は中止となってしまいました。
 

※ちなみにこの計画を阻んだのは、同じく岩手出身の原敬(はらたかし:岩手県盛岡市出身)です。
 

この1435mm(標準軌)の鉄道の計画は、昭和39年(1964年)開通の東海道新幹線で実現することとなります。

 

奥州市水沢区に「後藤伯記念公民館(ごとうはくきねんこうみんかん)」という公民館がありますが、この公民館は、後藤新平より資金援助を受けた読売新聞創業者の正力松太郎(しょうりきまつたろう)が、その恩返しとして後藤新平の郷里に資金を寄贈し建設されました。
この公民館は日本で一番最初につくられた公民館と言われております。
そしてこの公民館に隣接して「後藤新平記念館」があります。

 

後藤伯記念公民館
〒023-0053 岩手県奥州市水沢区大手町4-1

 

後藤新平記念館
〒023-0053 岩手県奥州市水沢区大手町4-1
TEL: 0197-25-7870
http://www.city.oshu.iwate.jp/shinpei/access.html

 

斎藤實(=斎藤実:さいとうまこと)

 

安政5年(1858年)留守氏に仕える藩士、斎藤軍記(耕平)高庸の子として生まれました。
 

幼名は「富五郎(とみごろう)」といいましたが、海軍兵学校卒業後に改名し「實(まこと)」となりました。
 

第一次西園寺(さいおんじ)内閣・第二次桂(かつら)内閣・第二次西園寺内閣・第三次桂内閣・第一次山本内閣の5内閣で海軍大臣を務めた後、シーメンス汚職事件により大臣を引責辞任しました。
 

その後、ジュネーブ海軍軍縮会議の主席全権と朝鮮総督を2期務め、第30代内閣総理大臣に就任しましたが、帝人事件(ていじんじけん)での政府批判が高まったことにより内閣総辞職しました。
 

辞職後内大臣となって宮中入りましたが、直後に二・二六事件において一部の陸軍将校らの手によって射殺されました。
 

最後の言葉の「話せばわかる」は有名です。

 

奥州市水沢区に「斎藤實記念館(さいとうまこときねんかん)」があります。

 

斎藤實記念館
〒023-0054 岩手県奥州市水沢区吉小路24
TEL: 0197-23-2768
http://www.city.oshu.iwate.jp/htm/soshiki/syakai/kousui/top.html

 

田辺の三偉人

ここ岩手県奥州市には三偉人と呼ばれる人たちがおります。
 

ひとりは、江戸時代の蘭学者、高野長英(たかのちょうえい)
 

ひとりは、初代東京市長(現在の東京都知事)である、後藤新平(ごとうしんぺい)
 

またひとりは、第30代内閣総理大臣であり、2.26事件で命を落とした齋藤實(さいとうまこと)
 

 

和歌山県田辺市を訪れた方ならご存じの方も多いかと思いますが、
 

田辺市にも「田辺の三偉人」というものがあるといいます。

 

 

ひとりは、武蔵坊弁慶(むさしぼうべんけい)
 

またひとりは、南方熊楠(みなかたくまくす)

 

そしてもうひとりが、

合気道創始者の植芝盛平(うえしばもりへい)開祖であります。

 

 

武蔵坊弁慶

 

言わずと知れた牛若丸(源義経)の家来。
京都の街で乱暴者として恐れられた武蔵坊弁慶が、千本の太刀を奪おうという悲願を立て、道行く人を襲っては太刀を奪い取り999本までになりました。
京都の五条大橋の上において、弁慶千本目の刀まであと一本というところで、五条大橋の上を笛を吹きながら歩く笛吹童子・・・ではなく牛若丸と遭遇します。
弁慶は腰に刺した太刀を奪い取るべく牛若丸に襲いかかります。
ところが牛若丸は、欄干から欄干へとヒラリヒラリと飛び交っては、弁慶の鋭い太刀筋を軽々とかわしてゆきます。そして最後には弁慶に一撃を加えて倒してしまいます。
とうとう降参した弁慶はその場で家来になったという逸話があります。
ちなみに、『義経記』によると牛若丸と弁慶が出会ったのは清水寺の境内で、決闘の場所も五条大橋ではなく、堀川小路から清水寺での出来事だったとのこと。
物語が伝えられていく上で、よりドラマティックにストーリーが書き換えられて現在の逸話になったのでしょう。
その後、都を追われることになった源義経(牛若丸)に従って弁慶は、奥州平泉(現在の岩手県西磐井郡平泉町)まで落ち延び、義経を守り、討伐軍の放つ矢を全身に受けながら立ったまま壮絶な最期を遂げたといいます。
この、立ったまま往生を遂げた弁慶の姿から「立ち往生(たちおうじょう)」という言葉が生まれました。

 

 

南方熊楠

 

世界的に有名な博物学者であり、生物学者(特に菌類額)であり、民俗学者としても知られます。
「歩く百科事典」とも呼ばれ、特に植物学を基礎とし、一つの分野に関連するすべての学問を網羅するものであったといいます。
その卓越した知識と独創的な思考で日本の民俗(その土地に受け継がれる風習や風俗)・伝説・宗教を広範な世界の事例と比較して論じました。
地衣類(シダや苔など)・菌類・民俗学・人類学などに関する英文論文が、科学雑誌『ネイチャー』に51本掲載されており、これは現在に至るまで単著としては歴代最高記録であるとも言われております。
南方熊楠は、明治政府の進める「神社合祀策」(神社の威厳を保たせるため、一定基準以上の設備・財産を備えさせ神社の継続的経営を確立させるため、神社の数を減らし残った神社に経費を集中させる)への反対運動を起こします。
合気道創始者植芝盛平は、明治42年(1909年)26歳のときそれに共鳴し、地元青年や住民を率いて熊楠に協力し熱心に活動したとも伝えられております。

 

 

合気道創始者 植芝盛平

 

田辺市のホームページに開祖のことを以下のように紹介されてます。
http://www.city.tanabe.lg.jp/sports/aikidou.html

 

(以下引用)
合気道の創始者・植芝盛平翁は和歌山県田辺市元町(旧・西牟婁郡西ノ谷村、現・田辺市上の山)に生まれ、幼い頃から武道に励み、19歳で修行の旅に出て各流の武術遍歴を重ねつつ独自の武術を習得しました。
1942(昭和17)年に合気道と名づけ、国内はもとより世界中にその名を広めました。
その功績を称え、1969(昭和44)年に田辺市名誉市民の称号を受けました。
「合気道」のその技は、相手に触れるやいなや一瞬のうちに相手を制することができるといわれています。
しかし、合気道は一般のスポーツや競技武道と違い、無理に相手を倒そうとするものではなく、また、強弱、勝負を争うものではありません。
翁がつねづね「合気とは敵と戦い敵を破る術ではない。世界を和合させ、人類を一家たらしめる道である」といい、そもそも合気道は、相手と相和して切磋琢磨をはかり自己の人格完成を目指す武道だと述べています。すなわち、「合気道とは、各人に与えられた天命を完成させてあげる羅針盤であり、和合の道であり、愛の道」なのです。
この理想は、日本のみならず世界の武道として広く愛されるとともに大きく発展を続け、1988(昭和63)年には生まれ故郷「田辺市」で第5回国際合気道大会がはなばなしく開催されました。
その記念として扇ケ浜公園内に、翁の銅像が建てられています。
このほか、盛平翁を称え、田辺市では植芝家先祖代々の墓、盛平翁の生家跡、植芝盛平頌徳碑などを保存顕彰しています。

(引用終わり)