合気道 奥州道場  Aikido Oshu Dojo

(公財)合気会 公認道場  ☆★☆ 合気道奥州道場は岩手県の合気道場です ☆★☆

記事一覧

奥州市(水沢)の三偉人

前回、「田辺の三偉人」と言う題名で記事を書きましたが、
その中で、ちらっとだけ書いた、
奥州市の三偉人(正確には「水沢の三偉人」)というものがあります。

 

江戸時代の蘭学者、高野長英(たかのちょうえい)
初代東京市長(現在の東京都知事)、後藤新平(ごとうしんぺい)
第30代内閣総理大臣であり、2.26事件で命を落とした齋藤實(さいとうまこと)

 

現在ならば、奥州市の三偉人と行ったら誰でしょう?
と聞けば、
もしかしたら、

 

日本ハムの大谷翔平(おおたにしょうへい)選手!
NHKの阿部渉(あべわたる)アナウンサー!
漫画家の吉田戦車(よしだせんしゃ)!
みたいな答えが返ってくるかもしれません。(笑)
(それはないか・・・汗)

 

高野長英(たかのちょうえい)

 

江戸時代、ここ岩手県奥州市は南部藩ではなく仙台(伊達)藩に属しておりました。

 

※全く関係のない話ですが、南部藩と仙台藩の領地の境を決めた時の逸話がありますので、これをまた別の機会にお話ししたいと思います。

 

高野長英は、文化元年(1804年)水沢(現在の奥州市水沢区)の領主である、水沢伊達氏(=留守氏:るすし)1万6千石の家臣、後藤実慶(ごとうさねのぶ)の三男として生まれました。
 

もともとの名は「後藤謙(ごとうゆずる)」といいました。
 

父が9歳の時に亡くなったため、母の兄高野玄斎(たかのげんさい)の養子となり「高野」姓を名乗るようになりました。
 

文政3年(1820年)、江戸に赴き杉田伯元(すぎたはくげん)や吉田長淑(よしだちょうしゅく)に師事しましたが、のちに吉田長淑に才能を認められ、師の「長」の文字を貰い受けて「長英」を名乗るようになりました。
 

その後長崎に留学してシーボルトの鳴滝塾で医学・蘭学を学び、学力が抜きん出ていたため、やがて塾頭となっています。
 

天保元年(1830年)江戸に戻り、麹町に町医者として蘭学塾を開業し、能力を買われて田原藩のお雇い蘭学者として小関三英や鈴木春山とともに蘭学書の翻訳に当たったと言われています。

 

奥州市水沢区の水沢公園(桜がとてもきれいな公園です)内に「高野長英記念館」があります。

 

高野長英記念館
〒023-0857 岩手県奥州市水沢区中上野町1番9号
TEL : 0197-23-6034
http://www.city.oshu.iwate.jp/syuzou01/riyou.html

 

後藤新平(ごとうしんぺい)

 

安政4年(1857年)留守氏の家臣・後藤実崇(ごとうさねたか)と利恵の長男として生まれました。
上に書いた高野長英とは遠縁に当たります。
 

後藤新平は最初から政治家を目指していたようでありますが、高野長英の影響もあり、恩師や周囲から医者になることを強く薦められ、17歳で須賀川医学校に気の進まないまま入学することになりました。
 

ところが、同校では成績は優秀。卒業後、愛知県医学校(現在の名古屋大学医学部)で医者となりました。
 

ここではなんと24歳で学長兼病院長となり、病院に関わる事務に当たっておりました。
 

このときの実績が評価され、内務省衛生局に入り、医者としてよりも官僚として病院・衛生に関する行政に従事することとなりました。
 

後藤新平はその後、あれこれ官僚、閣僚を歴任し、初代東京市長(現在の東京都知事)に就任します。
 

彼の立案する計画はどれも、他の人たちから見るとどれも壮大すぎる計画に見えたため「後藤新平の大風呂敷(おおぶろしき)」とよく言われました。
 

後藤新平にしてみればインフラ計画などは、非常に丁寧に堅実に、先々のことなどを含め考えて、考えて、考え抜いて立てた計画であったのですが、周囲の理解をなかなか得られることは出来ませんでした。
 

例えばこんな話があります。
 

鉄道のレールの話。
 

明治維新後、日本に鉄道を敷設する時、レールとレールの間の幅(軌間)の規格を明治政府が決めた際、なかば適当に1067mmと決めてしまっていました。
 

ところが、ヨーロッパなど多くの外国では1435mm(標準軌)となっていて、日本の鉄道はそれよりも狭く、輸送力やスピードで大きく劣るものとなっておりました。
 

日本が満州に建設した満州鉄道ではこの1435mm(標準軌)を採用し敷設されましたが、日本国内の鉄道は1067mmのままでありました。  ※現在も在来線は1067mmとなっております。
 

後藤新平が満州鉄道の初代総裁に就任した時、日本国内の鉄道もすべて満州鉄道にならい軌間を1435mm(標準軌)に架け替えようと言う計画を持ち出しました。
 

しかし、予算が膨大に膨らんでしまうため、すったもんだの後計画は中止となってしまいました。
 

※ちなみにこの計画を阻んだのは、同じく岩手出身の原敬(はらたかし:岩手県盛岡市出身)です。
 

この1435mm(標準軌)の鉄道の計画は、昭和39年(1964年)開通の東海道新幹線で実現することとなります。

 

奥州市水沢区に「後藤伯記念公民館(ごとうはくきねんこうみんかん)」という公民館がありますが、この公民館は、後藤新平より資金援助を受けた読売新聞創業者の正力松太郎(しょうりきまつたろう)が、その恩返しとして後藤新平の郷里に資金を寄贈し建設されました。
この公民館は日本で一番最初につくられた公民館と言われております。
そしてこの公民館に隣接して「後藤新平記念館」があります。

 

後藤伯記念公民館
〒023-0053 岩手県奥州市水沢区大手町4-1

 

後藤新平記念館
〒023-0053 岩手県奥州市水沢区大手町4-1
TEL: 0197-25-7870
http://www.city.oshu.iwate.jp/shinpei/access.html

 

斎藤實(=斎藤実:さいとうまこと)

 

安政5年(1858年)留守氏に仕える藩士、斎藤軍記(耕平)高庸の子として生まれました。
 

幼名は「富五郎(とみごろう)」といいましたが、海軍兵学校卒業後に改名し「實(まこと)」となりました。
 

第一次西園寺(さいおんじ)内閣・第二次桂(かつら)内閣・第二次西園寺内閣・第三次桂内閣・第一次山本内閣の5内閣で海軍大臣を務めた後、シーメンス汚職事件により大臣を引責辞任しました。
 

その後、ジュネーブ海軍軍縮会議の主席全権と朝鮮総督を2期務め、第30代内閣総理大臣に就任しましたが、帝人事件(ていじんじけん)での政府批判が高まったことにより内閣総辞職しました。
 

辞職後内大臣となって宮中入りましたが、直後に二・二六事件において一部の陸軍将校らの手によって射殺されました。
 

最後の言葉の「話せばわかる」は有名です。

 

奥州市水沢区に「斎藤實記念館(さいとうまこときねんかん)」があります。

 

斎藤實記念館
〒023-0054 岩手県奥州市水沢区吉小路24
TEL: 0197-23-2768
http://www.city.oshu.iwate.jp/htm/soshiki/syakai/kousui/top.html

 

田辺の三偉人

ここ岩手県奥州市には三偉人と呼ばれる人たちがおります。
 

ひとりは、江戸時代の蘭学者、高野長英(たかのちょうえい)
 

ひとりは、初代東京市長(現在の東京都知事)である、後藤新平(ごとうしんぺい)
 

またひとりは、第30代内閣総理大臣であり、2.26事件で命を落とした齋藤實(さいとうまこと)
 

 

和歌山県田辺市を訪れた方ならご存じの方も多いかと思いますが、
 

田辺市にも「田辺の三偉人」というものがあるといいます。

 

 

ひとりは、武蔵坊弁慶(むさしぼうべんけい)
 

またひとりは、南方熊楠(みなかたくまくす)

 

そしてもうひとりが、

合気道創始者の植芝盛平(うえしばもりへい)開祖であります。

 

 

武蔵坊弁慶

 

言わずと知れた牛若丸(源義経)の家来。
京都の街で乱暴者として恐れられた武蔵坊弁慶が、千本の太刀を奪おうという悲願を立て、道行く人を襲っては太刀を奪い取り999本までになりました。
京都の五条大橋の上において、弁慶千本目の刀まであと一本というところで、五条大橋の上を笛を吹きながら歩く笛吹童子・・・ではなく牛若丸と遭遇します。
弁慶は腰に刺した太刀を奪い取るべく牛若丸に襲いかかります。
ところが牛若丸は、欄干から欄干へとヒラリヒラリと飛び交っては、弁慶の鋭い太刀筋を軽々とかわしてゆきます。そして最後には弁慶に一撃を加えて倒してしまいます。
とうとう降参した弁慶はその場で家来になったという逸話があります。
ちなみに、『義経記』によると牛若丸と弁慶が出会ったのは清水寺の境内で、決闘の場所も五条大橋ではなく、堀川小路から清水寺での出来事だったとのこと。
物語が伝えられていく上で、よりドラマティックにストーリーが書き換えられて現在の逸話になったのでしょう。
その後、都を追われることになった源義経(牛若丸)に従って弁慶は、奥州平泉(現在の岩手県西磐井郡平泉町)まで落ち延び、義経を守り、討伐軍の放つ矢を全身に受けながら立ったまま壮絶な最期を遂げたといいます。
この、立ったまま往生を遂げた弁慶の姿から「立ち往生(たちおうじょう)」という言葉が生まれました。

 

 

南方熊楠

 

世界的に有名な博物学者であり、生物学者(特に菌類額)であり、民俗学者としても知られます。
「歩く百科事典」とも呼ばれ、特に植物学を基礎とし、一つの分野に関連するすべての学問を網羅するものであったといいます。
その卓越した知識と独創的な思考で日本の民俗(その土地に受け継がれる風習や風俗)・伝説・宗教を広範な世界の事例と比較して論じました。
地衣類(シダや苔など)・菌類・民俗学・人類学などに関する英文論文が、科学雑誌『ネイチャー』に51本掲載されており、これは現在に至るまで単著としては歴代最高記録であるとも言われております。
南方熊楠は、明治政府の進める「神社合祀策」(神社の威厳を保たせるため、一定基準以上の設備・財産を備えさせ神社の継続的経営を確立させるため、神社の数を減らし残った神社に経費を集中させる)への反対運動を起こします。
合気道創始者植芝盛平は、明治42年(1909年)26歳のときそれに共鳴し、地元青年や住民を率いて熊楠に協力し熱心に活動したとも伝えられております。

 

 

合気道創始者 植芝盛平

 

田辺市のホームページに開祖のことを以下のように紹介されてます。
http://www.city.tanabe.lg.jp/sports/aikidou.html

 

(以下引用)
合気道の創始者・植芝盛平翁は和歌山県田辺市元町(旧・西牟婁郡西ノ谷村、現・田辺市上の山)に生まれ、幼い頃から武道に励み、19歳で修行の旅に出て各流の武術遍歴を重ねつつ独自の武術を習得しました。
1942(昭和17)年に合気道と名づけ、国内はもとより世界中にその名を広めました。
その功績を称え、1969(昭和44)年に田辺市名誉市民の称号を受けました。
「合気道」のその技は、相手に触れるやいなや一瞬のうちに相手を制することができるといわれています。
しかし、合気道は一般のスポーツや競技武道と違い、無理に相手を倒そうとするものではなく、また、強弱、勝負を争うものではありません。
翁がつねづね「合気とは敵と戦い敵を破る術ではない。世界を和合させ、人類を一家たらしめる道である」といい、そもそも合気道は、相手と相和して切磋琢磨をはかり自己の人格完成を目指す武道だと述べています。すなわち、「合気道とは、各人に与えられた天命を完成させてあげる羅針盤であり、和合の道であり、愛の道」なのです。
この理想は、日本のみならず世界の武道として広く愛されるとともに大きく発展を続け、1988(昭和63)年には生まれ故郷「田辺市」で第5回国際合気道大会がはなばなしく開催されました。
その記念として扇ケ浜公園内に、翁の銅像が建てられています。
このほか、盛平翁を称え、田辺市では植芝家先祖代々の墓、盛平翁の生家跡、植芝盛平頌徳碑などを保存顕彰しています。

(引用終わり)

 

合気道開祖 植芝盛平 北海道開拓時代

除隊後田辺へ帰郷

 

除隊後の開祖は田辺に帰郷しました。
帰郷後の開祖は暫くの間、
進路も定まらず悶々とする日々を送っておりました。
 

見かねたお父様が、
自宅の納屋を柔道場に改造して、
田辺に来遊中の柔道家、
高木喜与市(のちに講道館九段、当時参段)を高額を持って招き指導を依頼しました。
 

開祖はたちまち柔道に夢中になり近郷の青年も集まり、
道場はさながら青年会の趣を呈すようになりました。
開祖はその傍ら堺にある後藤派柳生流柔術の道場へ通い続け、
25歳のとき道場主・中井正勝の推薦を受け免許皆伝を授けられております。
 

後藤派は柳生心眼流(やぎゅうしんがんりゅう)の流れをくむ柳生流柔術でありますが、
柳生心眼流の法祖は柳生十兵衛(やぎゅうじゅうべえ)、
術祖は荒木又右衛門(あらきまたえもん)であり、
6代目の後藤柳生斎(ごとうやぎゅうさい)が後藤派を開きました。
この柳生流柔術はこのあと登場する大東流合気柔術(だいとうりゅうあいきじゅうじゅつ)と共に、
後の合気道に大きな影響を与えたといいます。

 

北海道開拓へ

 

血気盛んだった開祖は、
明治45年、開祖29歳のとき北海道開拓団の募集に応じ、
大きな夢を抱いて村の有志54戸、
80数名からなる「紀州団体」の団長として、
現在の網走支庁紋別郡白滝村に入植し、
苦難の末に村を開拓します。
 

開拓は原生林の伐木などの重労働、
夏には暴風雨、
冬には酷寒と豪雪、
3年連続凶作に見舞われるなど、
困難を極めたといいます。
 

そんな中開祖は自ら率先して伐木に取り組む傍ら、
役所への陳情嘆願に奔走しました。
ハッカ栽培に製材事業、馬産酪農を奨励し、
入植3年目以降は開拓民の生活も好転、
小学校建設、
商店街、
住宅の整備を図り村は活況を呈するようになったといいます。
 

こんなエピソードがあります。
開拓当時建設現場の多くはヤクザが取り仕切っていて、
「監獄部屋」と呼ばれる劣悪な環境の建設現場からは
よく工夫が脱走したそうなのでありますが、
開祖は逃げ出した工夫を義侠心から匿い、
工夫を追って乗り込んできたヤクザと話をつけて助けてやりました。
そのことが噂となり、
開祖を頼って逃げてくる工夫が続出、
開祖はそれらのすべてを助けたといいます。
これが地元新聞に取り上げられ、開祖は「白滝王」と称され周囲の尊敬を集めたといいます。

 

大東流合気柔術 武田惣角との出会い

 

1915年(大正4年)開祖31歳。
2月に所要で訪れた遠軽の旅館で
武術家・大東流合気柔術(だいとうりゅうあいきじゅうじゅつ)の武田惣角(たけだそうかく)に出会います。
大東流合気柔術は
清和源氏(せいわげんじ)の末裔である新羅三郎源義光(しんらさぶろうみなもとのよしみつ)を
始祖とする武田一族の武技で、
武田土佐国次によって会津藩に伝えられ、
以来、藩外不出の「御留技(おとめわざ)」となったものであります。

 

新羅三郎源義光=源 義光(みなもと の よしみつ)。
平安時代後期の武将。
河内源氏の2代目棟梁である源頼義の三男。
兄に源義家(八幡太郎)や源義綱(加茂次郎)がいる。
近江国の新羅明神(しんらみょうじん:大津三井寺新羅善神堂)で元服したことから
新羅三郎(しんらさぶろう)と称した。 ※Wikipediaより

 

 

開祖はその技に衝撃を受けます。
豪力で鳴らした開祖でありましたが、
当時54歳・身長150cmに満たない小柄な惣角の多彩な極め技に
抗うすべなく、難なくねじ伏せられたといいます。
開祖はその場で入門を請い、
宿泊を一ヶ月延長し武田惣角から指導を受けます。
 

1916年(大正5年)開祖33歳のとき、
白滝村に道場を設け惣角を招き、
村の有志十数人とともに熱心に学び「秘伝奥義」1巻を授かり免許を得ます。
開祖は惣角に献身的に仕え、
惣角の巡回指導にも随行、
警察署長や裁判所判事など地位の高い人物が多かった惣角の門人を代理指導することもありました。
 

1918年(大正7年)開祖35歳のとき、推されて上湧別村会議員に選出されます。

 

そんなとき、故郷の父が危篤だという報が開祖のもとに届きます。

 

 

つづく

合気道開祖 植芝盛平 幼少期〜日露戦争

幼少期は病弱だった開祖

 

合気道を創始しましたのは、

 

植芝盛平(うえしばもりへい)※敬称を略させていただきます といいます。

 

公益財団法人 合気会

 

先代道主、植芝吉祥丸(うえしばきっしょうまる)道主のお父上、

 

現道主、植芝守央(うえしばもりてる)道主の祖父にあたります。

 

 

合気道創始者である植芝盛平は、(以下開祖)

 

1883年(明治16年)12月14日、

 

和歌山県牟婁(むろ)郡西ノ谷村(のちの田辺市)に生を受けました。

 

 

お父様は村会議員を務めるなど村の有力者で、

 

体は大きく、

 

怪力の持ち主であったといいます。

 

 

のちに大相撲力士を投げ飛ばす、

 

近所の餅つきに呼ばれて餅をつくたびに杵を折る、

 

など武勇伝を残すことになる開祖は、

 

幼少の頃は病弱で内向的な読書好きの少年でありました。

 

杵を折るのは武勇伝と言っていいのかどうかわかりませんが・・・。

 

単なる迷惑話?(汗)

 

その後、

 

餅つきは体よく断られるようになったそうです。

 

やっぱり(笑)

 

 

大きくなって珠算学校で学んだあと地元の税務署に勤務することとなりますが、

 

18歳のとき(1901年・明治34年)

 

とある事件をきっかけに税務署を退職することとなります(磯事件)。

 

 

税務署の仕事をやめたあと開祖は、

 

19歳で親戚のつてを頼り単身上京し、

 

文房具卸売業「植芝紹介」を開業します。

 

 

仕事の傍ら天神真楊流柔術(てんじんしんようりゅうじゅうじゅつ)、

 

新陰流剣術(しんかげりゅうけんじゅつ)を学んでおりましたが、

 

元来病弱な身体のため無理がたたったのか4ヶ月後病気を患い、

 

店を従業員に譲り田辺へと帰郷することになります。

 

 

帰郷してからの開祖は、

 

病気克服のため裸足で山野を駆け巡るという鍛錬を積み、

 

頑健な体を作り上げたといいます。

 

ちなみにこの年、

 

開祖は2才年上で幼馴染の糸川はつさんとご結婚されております。

 

開祖19歳でした。

 

若いです。

 

 

1903年(明治36年)開祖20歳。

 

陸軍大阪第4師団歩兵第37連隊に入隊します。

 

同時期、開祖は堺の柳生心眼流柔術(中井正勝)に入門しています。

 

陸軍ではこれまでの鍛錬の成果も現れ、

 

行軍演習や銃剣術で頭角を現し、

 

銃剣術では上官の代理で教官も務めるほど腕を上げます。

 

 

1904年(明治37年)2月8日、開祖21歳。日露戦争が勃発します。

 

 

1905年(明治38年)開祖22歳。

 

伍長に昇進し、

 

第2軍大阪第4師団和歌山歩兵第61連隊に配属され戦地に出征しますが、

 

開祖が本格的な戦闘に参加することなく同年9月5日、

 

日露戦争は終戦を迎えます。

 

 

終戦後開祖は軍曹へと昇進し、

 

上官から陸軍学校へ入学し職業軍人への道を勧められましたが、

 

お父様の猛反対にあい断念され、

 

その後除隊し田辺へと帰郷します。

 

 

つづく