合気道 奥州道場  Aikido Oshu Dojo

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カテゴリー:合気道開祖 植芝盛平伝

合気道開祖 植芝盛平 綾部〜満州

綾部へ

 

開祖が上湧別村会議員に当選した翌年、1919年(大正8年)開祖36歳のときのこと。
 

開祖のもとに、郷里田辺よりお父上危篤の知らせが届きます。
 

開祖は北海道を去る決意を固めます。
 

土地や家屋を手放し、妻子を連れて田辺へと向かいました。

 
 

田辺へと向かう途中、開祖は大本(おおもと)教の出口王仁三郎(でぐちおにさぶろう)という人の噂を耳にします。
 

開祖はこの人に父の病気平癒の祈祷をお願いできないものかと、ひとり京都府綾部へと立ち寄りました。
 

そこで出口王仁三郎に出会うことになりますが、この間にお父上は亡くなってしまいます。
 

開祖は大変なショックを受けますが、それまでに王仁三郎に深く魅了されていた開祖は、王仁三郎の勧めもあり、一家を率い綾部に移住することにしました。
 

 

「武道を天職とせよ」という王仁三郎の言葉を胸に、開祖はさらに武道の研鑽を重ねます。
 

1921年(大正10年)開祖38歳のとき、三男が生まれます。
(これまでに男児2人生まれておりましたが、相次いで病死しておりました)
 

この時、王仁三郎が名付け親となり「吉祥丸(きっしょうまる)」と名付けられました(のちの二代目道主)。
 

 

翌年、1922年(大正11年)開祖39歳のとき、突然北海道の武田惣角(北海道開拓時代 参照)が妻子とともに綾部を訪れます。
 

当時綾部の道場「植芝塾(うえしばじゅく)」には陸海軍の軍人も開祖の門人として多数出入りしておりましたが、開祖はその門下の軍人たちとともに惣角の指導を受け、開祖は目録「合気柔術秘伝奥義之事」および「大東流合気柔術教授代理」の資格を授かりました。
 

この時から開祖はご自分の武術を正式に「合気武術(あいきぶじゅつ)」と称するようになり、重ねて武道としての精神的な裏付けを求め「言霊(ことだま)」の研究に没頭したといわれております。
 

また世間では、綾部に稀代(きだい)の武術家ありとうたわれておりました。
 

満州へ

 

1924年(大正13年)開祖41歳のとき、王仁三郎は満蒙(満州とモンゴルの地のこと)に統一宗教の独立国家を建設するという壮大な雄図のもとに、開祖を伴って満州へと渡り、「内外蒙古独立軍(ないがいもうこどくりつぐん)」を結成します。
 

その時開祖は、私達から見ればとても不思議な体験をしております。
 

光のつぶてが飛んでくる

 

王仁三郎と開祖は関東軍特務機関斡旋のもと、満州の支配者張作霖(ちょうさくりん)配下の馬賊、盧占魁(ろせんかい)の率いる「西北自治軍」とともにモンゴルへ向かいます。
 

しかし、盧の独走を疑った張の策謀により何度も死の危機にさらされることになります。
 

開祖はこの時の銃撃戦で、銃弾が来る前に「光のつぶて」が飛んで来るのが見え、それを避けたら、銃弾が光のつぶての軌道を通って飛んでくるという体験をします。
 

その光のつぶてを避ければ、敵弾から逃れることができたと言っております。
 

 

敵の銃弾の弾道が見えたといった話ではありません。
 

銃弾が飛んで来る前に光のつぶてが飛んできて、光のつぶてのあとに銃弾が飛んできたといっております。
 

敵の撃とうという念が、撃つ弾よりいち早く光のつぶてに見えて飛んできたものと思われます。
 

開祖はこの後何度も同じような体験をしますが、こんな話があります。
 

帰国後の話。
 

開祖の弾除けの話は陸軍の中でも有名となり、それならやってみろと、開祖は居並ぶ鉄砲隊の前に立たされます。
 

鉄砲隊は開祖に向けて一斉に射撃を始めます。
 

ところが、いつの間にか開祖の姿は鉄砲隊の背後にあって、鉄砲隊を次々と投げ飛ばしておりました。
 

それならばこれはどうだとばかりに、今度は鉄砲のプロである猟師を呼んできましたが、これには開祖は丁重にお断りしたとのことです。
 

なぜならばと開祖がおっしゃるには、猟師はどこから飛び出すかわからない動物を相手にしているため、反射的に弾を撃つ。
 

軍人は見えている人間を狙って弾を撃つので、どこに弾が飛んで来るか(光のつぶてが飛んで来るので)見えるが、猟師のは見えない、ということでありました。
 

つづく

合気道開祖 植芝盛平 北海道開拓時代

除隊後田辺へ帰郷

 

除隊後の開祖は田辺に帰郷しました。
帰郷後の開祖は暫くの間、
進路も定まらず悶々とする日々を送っておりました。
 

見かねたお父様が、
自宅の納屋を柔道場に改造して、
田辺に来遊中の柔道家、
高木喜与市(のちに講道館九段、当時参段)を高額を持って招き指導を依頼しました。
 

開祖はたちまち柔道に夢中になり近郷の青年も集まり、
道場はさながら青年会の趣を呈すようになりました。
開祖はその傍ら堺にある後藤派柳生流柔術の道場へ通い続け、
25歳のとき道場主・中井正勝の推薦を受け免許皆伝を授けられております。
 

後藤派は柳生心眼流(やぎゅうしんがんりゅう)の流れをくむ柳生流柔術でありますが、
柳生心眼流の法祖は柳生十兵衛(やぎゅうじゅうべえ)、
術祖は荒木又右衛門(あらきまたえもん)であり、
6代目の後藤柳生斎(ごとうやぎゅうさい)が後藤派を開きました。
この柳生流柔術はこのあと登場する大東流合気柔術(だいとうりゅうあいきじゅうじゅつ)と共に、
後の合気道に大きな影響を与えたといいます。

 

北海道開拓へ

 

血気盛んだった開祖は、
明治45年、開祖29歳のとき北海道開拓団の募集に応じ、
大きな夢を抱いて村の有志54戸、
80数名からなる「紀州団体」の団長として、
現在の網走支庁紋別郡白滝村に入植し、
苦難の末に村を開拓します。
 

開拓は原生林の伐木などの重労働、
夏には暴風雨、
冬には酷寒と豪雪、
3年連続凶作に見舞われるなど、
困難を極めたといいます。
 

そんな中開祖は自ら率先して伐木に取り組む傍ら、
役所への陳情嘆願に奔走しました。
ハッカ栽培に製材事業、馬産酪農を奨励し、
入植3年目以降は開拓民の生活も好転、
小学校建設、
商店街、
住宅の整備を図り村は活況を呈するようになったといいます。
 

こんなエピソードがあります。
開拓当時建設現場の多くはヤクザが取り仕切っていて、
「監獄部屋」と呼ばれる劣悪な環境の建設現場からは
よく工夫が脱走したそうなのでありますが、
開祖は逃げ出した工夫を義侠心から匿い、
工夫を追って乗り込んできたヤクザと話をつけて助けてやりました。
そのことが噂となり、
開祖を頼って逃げてくる工夫が続出、
開祖はそれらのすべてを助けたといいます。
これが地元新聞に取り上げられ、開祖は「白滝王」と称され周囲の尊敬を集めたといいます。

 

大東流合気柔術 武田惣角との出会い

 

1915年(大正4年)開祖31歳。
2月に所要で訪れた遠軽の旅館で
武術家・大東流合気柔術(だいとうりゅうあいきじゅうじゅつ)の武田惣角(たけだそうかく)に出会います。
大東流合気柔術は
清和源氏(せいわげんじ)の末裔である新羅三郎源義光(しんらさぶろうみなもとのよしみつ)を
始祖とする武田一族の武技で、
武田土佐国次によって会津藩に伝えられ、
以来、藩外不出の「御留技(おとめわざ)」となったものであります。

 

新羅三郎源義光=源 義光(みなもと の よしみつ)。
平安時代後期の武将。
河内源氏の2代目棟梁である源頼義の三男。
兄に源義家(八幡太郎)や源義綱(加茂次郎)がいる。
近江国の新羅明神(しんらみょうじん:大津三井寺新羅善神堂)で元服したことから
新羅三郎(しんらさぶろう)と称した。 ※Wikipediaより

 

 

開祖はその技に衝撃を受けます。
豪力で鳴らした開祖でありましたが、
当時54歳・身長150cmに満たない小柄な惣角の多彩な極め技に
抗うすべなく、難なくねじ伏せられたといいます。
開祖はその場で入門を請い、
宿泊を一ヶ月延長し武田惣角から指導を受けます。
 

1916年(大正5年)開祖33歳のとき、
白滝村に道場を設け惣角を招き、
村の有志十数人とともに熱心に学び「秘伝奥義」1巻を授かり免許を得ます。
開祖は惣角に献身的に仕え、
惣角の巡回指導にも随行、
警察署長や裁判所判事など地位の高い人物が多かった惣角の門人を代理指導することもありました。
 

1918年(大正7年)開祖35歳のとき、推されて上湧別村会議員に選出されます。

 

そんなとき、故郷の父が危篤だという報が開祖のもとに届きます。

 

 

つづく

合気道開祖 植芝盛平 幼少期〜日露戦争

幼少期は病弱だった開祖

 

合気道を創始しましたのは、

 

植芝盛平(うえしばもりへい)※敬称を略させていただきます といいます。

 

公益財団法人 合気会

 

先代道主、植芝吉祥丸(うえしばきっしょうまる)道主のお父上、

 

現道主、植芝守央(うえしばもりてる)道主の祖父にあたります。

 

 

合気道創始者である植芝盛平は、(以下開祖)

 

1883年(明治16年)12月14日、

 

和歌山県牟婁(むろ)郡西ノ谷村(のちの田辺市)に生を受けました。

 

 

お父様は村会議員を務めるなど村の有力者で、

 

体は大きく、

 

怪力の持ち主であったといいます。

 

 

のちに大相撲力士を投げ飛ばす、

 

近所の餅つきに呼ばれて餅をつくたびに杵を折る、

 

など武勇伝を残すことになる開祖は、

 

幼少の頃は病弱で内向的な読書好きの少年でありました。

 

杵を折るのは武勇伝と言っていいのかどうかわかりませんが・・・。

 

単なる迷惑話?(汗)

 

その後、

 

餅つきは体よく断られるようになったそうです。

 

やっぱり(笑)

 

 

大きくなって珠算学校で学んだあと地元の税務署に勤務することとなりますが、

 

18歳のとき(1901年・明治34年)

 

とある事件をきっかけに税務署を退職することとなります(磯事件)。

 

 

税務署の仕事をやめたあと開祖は、

 

19歳で親戚のつてを頼り単身上京し、

 

文房具卸売業「植芝紹介」を開業します。

 

 

仕事の傍ら天神真楊流柔術(てんじんしんようりゅうじゅうじゅつ)、

 

新陰流剣術(しんかげりゅうけんじゅつ)を学んでおりましたが、

 

元来病弱な身体のため無理がたたったのか4ヶ月後病気を患い、

 

店を従業員に譲り田辺へと帰郷することになります。

 

 

帰郷してからの開祖は、

 

病気克服のため裸足で山野を駆け巡るという鍛錬を積み、

 

頑健な体を作り上げたといいます。

 

ちなみにこの年、

 

開祖は2才年上で幼馴染の糸川はつさんとご結婚されております。

 

開祖19歳でした。

 

若いです。

 

 

1903年(明治36年)開祖20歳。

 

陸軍大阪第4師団歩兵第37連隊に入隊します。

 

同時期、開祖は堺の柳生心眼流柔術(中井正勝)に入門しています。

 

陸軍ではこれまでの鍛錬の成果も現れ、

 

行軍演習や銃剣術で頭角を現し、

 

銃剣術では上官の代理で教官も務めるほど腕を上げます。

 

 

1904年(明治37年)2月8日、開祖21歳。日露戦争が勃発します。

 

 

1905年(明治38年)開祖22歳。

 

伍長に昇進し、

 

第2軍大阪第4師団和歌山歩兵第61連隊に配属され戦地に出征しますが、

 

開祖が本格的な戦闘に参加することなく同年9月5日、

 

日露戦争は終戦を迎えます。

 

 

終戦後開祖は軍曹へと昇進し、

 

上官から陸軍学校へ入学し職業軍人への道を勧められましたが、

 

お父様の猛反対にあい断念され、

 

その後除隊し田辺へと帰郷します。

 

 

つづく