除隊後田辺へ帰郷

 

除隊後の開祖は田辺に帰郷しました。
帰郷後の開祖は暫くの間、
進路も定まらず悶々とする日々を送っておりました。
 

見かねたお父様が、
自宅の納屋を柔道場に改造して、
田辺に来遊中の柔道家、
高木喜与市(のちに講道館九段、当時参段)を高額を持って招き指導を依頼しました。
 

開祖はたちまち柔道に夢中になり近郷の青年も集まり、
道場はさながら青年会の趣を呈すようになりました。
開祖はその傍ら堺にある後藤派柳生流柔術の道場へ通い続け、
25歳のとき道場主・中井正勝の推薦を受け免許皆伝を授けられております。
 

後藤派は柳生心眼流(やぎゅうしんがんりゅう)の流れをくむ柳生流柔術でありますが、
柳生心眼流の法祖は柳生十兵衛(やぎゅうじゅうべえ)、
術祖は荒木又右衛門(あらきまたえもん)であり、
6代目の後藤柳生斎(ごとうやぎゅうさい)が後藤派を開きました。
この柳生流柔術はこのあと登場する大東流合気柔術(だいとうりゅうあいきじゅうじゅつ)と共に、
後の合気道に大きな影響を与えたといいます。

 

北海道開拓へ

 

血気盛んだった開祖は、
明治45年、開祖29歳のとき北海道開拓団の募集に応じ、
大きな夢を抱いて村の有志54戸、
80数名からなる「紀州団体」の団長として、
現在の網走支庁紋別郡白滝村に入植し、
苦難の末に村を開拓します。
 

開拓は原生林の伐木などの重労働、
夏には暴風雨、
冬には酷寒と豪雪、
3年連続凶作に見舞われるなど、
困難を極めたといいます。
 

そんな中開祖は自ら率先して伐木に取り組む傍ら、
役所への陳情嘆願に奔走しました。
ハッカ栽培に製材事業、馬産酪農を奨励し、
入植3年目以降は開拓民の生活も好転、
小学校建設、
商店街、
住宅の整備を図り村は活況を呈するようになったといいます。
 

こんなエピソードがあります。
開拓当時建設現場の多くはヤクザが取り仕切っていて、
「監獄部屋」と呼ばれる劣悪な環境の建設現場からは
よく工夫が脱走したそうなのでありますが、
開祖は逃げ出した工夫を義侠心から匿い、
工夫を追って乗り込んできたヤクザと話をつけて助けてやりました。
そのことが噂となり、
開祖を頼って逃げてくる工夫が続出、
開祖はそれらのすべてを助けたといいます。
これが地元新聞に取り上げられ、開祖は「白滝王」と称され周囲の尊敬を集めたといいます。

 

大東流合気柔術 武田惣角との出会い

 

1915年(大正4年)開祖31歳。
2月に所要で訪れた遠軽の旅館で
武術家・大東流合気柔術(だいとうりゅうあいきじゅうじゅつ)の武田惣角(たけだそうかく)に出会います。
大東流合気柔術は
清和源氏(せいわげんじ)の末裔である新羅三郎源義光(しんらさぶろうみなもとのよしみつ)を
始祖とする武田一族の武技で、
武田土佐国次によって会津藩に伝えられ、
以来、藩外不出の「御留技(おとめわざ)」となったものであります。

 

新羅三郎源義光=源 義光(みなもと の よしみつ)。
平安時代後期の武将。
河内源氏の2代目棟梁である源頼義の三男。
兄に源義家(八幡太郎)や源義綱(加茂次郎)がいる。
近江国の新羅明神(しんらみょうじん:大津三井寺新羅善神堂)で元服したことから
新羅三郎(しんらさぶろう)と称した。 ※Wikipediaより

 

 

開祖はその技に衝撃を受けます。
豪力で鳴らした開祖でありましたが、
当時54歳・身長150cmに満たない小柄な惣角の多彩な極め技に
抗うすべなく、難なくねじ伏せられたといいます。
開祖はその場で入門を請い、
宿泊を一ヶ月延長し武田惣角から指導を受けます。
 

1916年(大正5年)開祖33歳のとき、
白滝村に道場を設け惣角を招き、
村の有志十数人とともに熱心に学び「秘伝奥義」1巻を授かり免許を得ます。
開祖は惣角に献身的に仕え、
惣角の巡回指導にも随行、
警察署長や裁判所判事など地位の高い人物が多かった惣角の門人を代理指導することもありました。
 

1918年(大正7年)開祖35歳のとき、推されて上湧別村会議員に選出されます。

 

そんなとき、故郷の父が危篤だという報が開祖のもとに届きます。

 

 

つづく