前回、「田辺の三偉人」と言う題名で記事を書きましたが、
その中で、ちらっとだけ書いた、
奥州市の三偉人(正確には「水沢の三偉人」)というものがあります。

 

江戸時代の蘭学者、高野長英(たかのちょうえい)
初代東京市長(現在の東京都知事)、後藤新平(ごとうしんぺい)
第30代内閣総理大臣であり、2.26事件で命を落とした齋藤實(さいとうまこと)

 

現在ならば、奥州市の三偉人と行ったら誰でしょう?
と聞けば、
もしかしたら、

 

日本ハムの大谷翔平(おおたにしょうへい)選手!
NHKの阿部渉(あべわたる)アナウンサー!
漫画家の吉田戦車(よしだせんしゃ)!
みたいな答えが返ってくるかもしれません。(笑)
(それはないか・・・汗)

 

高野長英(たかのちょうえい)

 

江戸時代、ここ岩手県奥州市は南部藩ではなく仙台(伊達)藩に属しておりました。

 

※全く関係のない話ですが、南部藩と仙台藩の領地の境を決めた時の逸話がありますので、これをまた別の機会にお話ししたいと思います。

 

高野長英は、文化元年(1804年)水沢(現在の奥州市水沢区)の領主である、水沢伊達氏(=留守氏:るすし)1万6千石の家臣、後藤実慶(ごとうさねのぶ)の三男として生まれました。
 

もともとの名は「後藤謙(ごとうゆずる)」といいました。
 

父が9歳の時に亡くなったため、母の兄高野玄斎(たかのげんさい)の養子となり「高野」姓を名乗るようになりました。
 

文政3年(1820年)、江戸に赴き杉田伯元(すぎたはくげん)や吉田長淑(よしだちょうしゅく)に師事しましたが、のちに吉田長淑に才能を認められ、師の「長」の文字を貰い受けて「長英」を名乗るようになりました。
 

その後長崎に留学してシーボルトの鳴滝塾で医学・蘭学を学び、学力が抜きん出ていたため、やがて塾頭となっています。
 

天保元年(1830年)江戸に戻り、麹町に町医者として蘭学塾を開業し、能力を買われて田原藩のお雇い蘭学者として小関三英や鈴木春山とともに蘭学書の翻訳に当たったと言われています。

 

奥州市水沢区の水沢公園(桜がとてもきれいな公園です)内に「高野長英記念館」があります。

 

高野長英記念館
〒023-0857 岩手県奥州市水沢区中上野町1番9号
TEL : 0197-23-6034
http://www.city.oshu.iwate.jp/syuzou01/riyou.html

 

後藤新平(ごとうしんぺい)

 

安政4年(1857年)留守氏の家臣・後藤実崇(ごとうさねたか)と利恵の長男として生まれました。
上に書いた高野長英とは遠縁に当たります。
 

後藤新平は最初から政治家を目指していたようでありますが、高野長英の影響もあり、恩師や周囲から医者になることを強く薦められ、17歳で須賀川医学校に気の進まないまま入学することになりました。
 

ところが、同校では成績は優秀。卒業後、愛知県医学校(現在の名古屋大学医学部)で医者となりました。
 

ここではなんと24歳で学長兼病院長となり、病院に関わる事務に当たっておりました。
 

このときの実績が評価され、内務省衛生局に入り、医者としてよりも官僚として病院・衛生に関する行政に従事することとなりました。
 

後藤新平はその後、あれこれ官僚、閣僚を歴任し、初代東京市長(現在の東京都知事)に就任します。
 

彼の立案する計画はどれも、他の人たちから見るとどれも壮大すぎる計画に見えたため「後藤新平の大風呂敷(おおぶろしき)」とよく言われました。
 

後藤新平にしてみればインフラ計画などは、非常に丁寧に堅実に、先々のことなどを含め考えて、考えて、考え抜いて立てた計画であったのですが、周囲の理解をなかなか得られることは出来ませんでした。
 

例えばこんな話があります。
 

鉄道のレールの話。
 

明治維新後、日本に鉄道を敷設する時、レールとレールの間の幅(軌間)の規格を明治政府が決めた際、なかば適当に1067mmと決めてしまっていました。
 

ところが、ヨーロッパなど多くの外国では1435mm(標準軌)となっていて、日本の鉄道はそれよりも狭く、輸送力やスピードで大きく劣るものとなっておりました。
 

日本が満州に建設した満州鉄道ではこの1435mm(標準軌)を採用し敷設されましたが、日本国内の鉄道は1067mmのままでありました。  ※現在も在来線は1067mmとなっております。
 

後藤新平が満州鉄道の初代総裁に就任した時、日本国内の鉄道もすべて満州鉄道にならい軌間を1435mm(標準軌)に架け替えようと言う計画を持ち出しました。
 

しかし、予算が膨大に膨らんでしまうため、すったもんだの後計画は中止となってしまいました。
 

※ちなみにこの計画を阻んだのは、同じく岩手出身の原敬(はらたかし:岩手県盛岡市出身)です。
 

この1435mm(標準軌)の鉄道の計画は、昭和39年(1964年)開通の東海道新幹線で実現することとなります。

 

奥州市水沢区に「後藤伯記念公民館(ごとうはくきねんこうみんかん)」という公民館がありますが、この公民館は、後藤新平より資金援助を受けた読売新聞創業者の正力松太郎(しょうりきまつたろう)が、その恩返しとして後藤新平の郷里に資金を寄贈し建設されました。
この公民館は日本で一番最初につくられた公民館と言われております。
そしてこの公民館に隣接して「後藤新平記念館」があります。

 

後藤伯記念公民館
〒023-0053 岩手県奥州市水沢区大手町4-1

 

後藤新平記念館
〒023-0053 岩手県奥州市水沢区大手町4-1
TEL: 0197-25-7870
http://www.city.oshu.iwate.jp/shinpei/access.html

 

斎藤實(=斎藤実:さいとうまこと)

 

安政5年(1858年)留守氏に仕える藩士、斎藤軍記(耕平)高庸の子として生まれました。
 

幼名は「富五郎(とみごろう)」といいましたが、海軍兵学校卒業後に改名し「實(まこと)」となりました。
 

第一次西園寺(さいおんじ)内閣・第二次桂(かつら)内閣・第二次西園寺内閣・第三次桂内閣・第一次山本内閣の5内閣で海軍大臣を務めた後、シーメンス汚職事件により大臣を引責辞任しました。
 

その後、ジュネーブ海軍軍縮会議の主席全権と朝鮮総督を2期務め、第30代内閣総理大臣に就任しましたが、帝人事件(ていじんじけん)での政府批判が高まったことにより内閣総辞職しました。
 

辞職後内大臣となって宮中入りましたが、直後に二・二六事件において一部の陸軍将校らの手によって射殺されました。
 

最後の言葉の「話せばわかる」は有名です。

 

奥州市水沢区に「斎藤實記念館(さいとうまこときねんかん)」があります。

 

斎藤實記念館
〒023-0054 岩手県奥州市水沢区吉小路24
TEL: 0197-23-2768
http://www.city.oshu.iwate.jp/htm/soshiki/syakai/kousui/top.html